特養に入りやっと安心できたのも束の間。
次々と起きる特養での不可解なこと。
さすがにもうこれ以上は危ない!
と思い、在宅介護をする決心をする。
しかし、在宅介護は想像を絶することばかりだった。
7年間の施設生活とおさらば

義母は、60歳という若さで脳出血で倒れ、それからはずっと要介護5の完全寝たきり状態。
左半身麻痺なので右手は動かせた。
それでも人の手を借りずには何もできない状態で、完全介助が必要な状態。
妻は一人っ子で、小さい時に両親は離婚したので母子家庭で育った。
義母が倒れた時も頼る人はほとんどいず、女で一つで支えてきた。
倒れた時はまだ独身でOLをやりながらの介護。
当時は西東京の山奥の施設に預けていたため、土日の休みには電車・バスを乗り継ぎ、片道2時間近くかけて毎週面会に行っていた。
その度に義母には、
「いつか絶対に迎えに来るからね。待っててね」
と約束していた。
でも義母はそんな娘の言葉にこう返していた。
「お母さんは大丈夫。自分の幸せを考えなさい。人間はどこでも生きていけるから大丈夫。」
と。
そんな話も聞いていたから余計に見離せなかった。
これが「早く迎えにきて」とか「親が倒れたら子供が看るのは当然」とか言われたらまた違ったと思う。
倒れてから7年間、数ヶ所の老健・特養と転々としてきた。
その間に毎週末妻は面会に行っていたのだ。
今までの各施設ではいろんな辛い思いもしてきた。
そして最後の特養では,
最悪な出来事がたくさんあった。
もういいだろう。
今まで二人ともよく頑張った。
これからは毎日同じ屋根の下で一緒に過ごせる。
特養から義母を引き取り、3人の在宅介護生活が始まった。
特養から脱出!念願の在宅介護生活の初日

初めて義母が家に来た日は今でも覚えている。
当時は介護ベッドのレンタルもまだしていなく、リクラインングができる簡易的なベッドを用意した。
1番最初に大変だなと思ったことは、当時の玄関には3~4段ほどの階段を上らなければならなかったこと。
ここは介護タクシーの運転手に手伝ってもらって、一段一段慎重に上った。
部屋に入ると、今度は車椅子の義母をベッドに移乗させるに苦労した。
介護の「か」の字も知らない僕は、おっかなびっくり義母を抱き上げゆっくりと移動した。

ここまでで一苦労。
今となっては簡単にできるが、当時は何もかもが初めて。
汗びっしょり。
先が思いやられると頭の片隅に浮かんだ。
想像とはだいぶかけ離れたいた在宅介護生活の現実

車椅子からベッドへの移乗の他に、こんなところにかなり苦労した。
- 食事介助
- 歯磨き
- 着替え
- オムツ替え
- 体交
と、まるで大きな赤ちゃんを育ててるような感覚。
当たり前だが、我々の新婚生活はどこへと言わんばかりに、完全に介護中心の生活になった。
軽く考えすぎていた。
でもあのまま介護施設にいたら危ない。
複雑な気持ちをもったまま毎日こなしていくのが精一杯。
当時はメゾネットタイプの部屋に住んでいて、1FにはLDKとお風呂場とトイレ、2Fが自分たちの部屋と寝室になっていた。
寝たきりの義母はもちろん1Fのリビング。
そうなると生活のほとんどがこの空間になった。
寝る時も義母のそばを離れるわけにはいかないので、ほとんど1Fでの生活。
2Fはほぼ不必要になってしまった。
間取りはよかったのだが、在宅介護という点で見ると不便に感じた。
引越しを決意

ということで引越しを決意。
1Fのリビングに、義母を含め3人が集まっている感じになり、普通のマンションに引っ越すことにした。
1F、2Fがなければもっと使いやすくなる。
寝たきりの介護はいかにスムーズにできるか。
介護のしやすさを優先して引越しをすることにした。
車で10分ぐらいの場所に、いい感じのマンションが見つかった。
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