先日、家で看ている要介護5の義母が一時重篤に。
気管切開になってから約10年。
病院騒動が1度もなく毎日穏やかな日を過ごしてきましたが、それは突然訪れました。
もしかしたら・・
と思えるほど義母の容態が悪化。
その時に色々考えたり感じたことがあったので日記として残したいと思います。
要介護5の義母が重篤に
義母が重篤状態になっておよそ1ヶ月とちょっと。
一時は酸素吸入量が10L /分までいったんです。
担当医からハッキリと
「お母さんは今、重篤状態」
とまで言われ動揺。
最大7Lの酸素吸入器を2台繋ぐまでになってしまい、看護師さんからは
「万が一の時にバタバタしないように、今から葬儀屋をある程度決めておいた方がいい」とまで言われたほど。
体全体の力が抜けていく感じがあり無気力になってしまいました。
その時の詳しい日記があるので興味のある方はどうぞ。
重篤になり考えたり感じたこと
約1ヶ月とちょっと義母が重篤になり、いろいろ考えたり感じたことがありました。
その時のことを思い出し整理したいと思います。
初めて「死」を意識した
在宅介護生活を始めて16年。
初めて義母の
「死」
というものを意識しました。
それまでも様々なことがありましたが、義母が亡くなるほどまでのことはなかったのでかなり動揺。
生きている限り誰でもいつかは必ず訪れますが、まさか義母がなんて呑気なことを思っていたのかもしれません。
でもよく考えたら今年で83歳の義母。
寝たきりではない人でもある程度は「死」という世界にどんどん近づいているわけです。
そんなことも普段から全く考えていなかったのでこの時に初めて意識したんです。
呑気に毎日を過ごしていたことになりますが、寝たきりでも顔の表情はとてもよく眼力があり、ずっと変わらない義母だったからこそ余計に「死」というを感じてこなかったのかもしれません。
心にポッカリと穴が空いた
心にポッカリと穴が空くとはこういうことか、と初めて実感。
もう体全体の力が抜けきってしまったというか仕事をするにもお風呂に入るにも、ただ何となく目の前のことをやるだけって感じでした。
上の空で何に対しても気が抜けた状態。
毎日をただただ過ごすだけで、感情もほとんどなく淡々とこなすだけでした。
辛い介護をまたやりたいと思った
在宅介護をやり始めて16年目。
今はだいぶ介護環境も整いたまに夫婦2人だけで出かけられたりできるようになりましたが、生活自体は介護中心で回っています。
完全な自由ではなく常にどちらかが義母に付き添い、痰が上がれば吸引。
決まった時間におむつ交換や栄養注入、体交、バイタルチェック。
まさにちっちゃな赤ちゃんをみているのと同じです。
だから正直、自由になりたいなんて思うこともたまにあります。
でも義母の「死」というものを意識した時に
頼むからいつもの義母に戻ってくれ
また辛いけどいつもの介護生活がしたい
と正直思ってしまいました。
きっとその生活にいつもの安心感を持っていたのかと後で感じました。
人はどんな環境でも慣れるもの。
今の我々には、いつもの介護があっての生活が一番幸せだと思ったのです。
今後の私生活の想像が全くできなかった
在宅介護生活16年目ともなると、完全寝たきり要介護5の義母がいて当たり前の生活。
だからいなくなると考えた時に、その後の夫婦2人だけの生活が全く想像できなかったのです。
ここで義母がいなくなったらどんな生活になるのか
夫婦円満にやっていけるのか
やりがいや生きがいが全てなくなるのではないか
と介護が基準にあっての考えになっていたのだと思います。
介護があるからたまに出かけたくなる
介護があるから食事の時間は毎日の楽しみ
介護があるから夫婦2人だけの時間がある時は大切に過ごそうって思える
っていう風に。
だからその中心となる介護がなくなったら何を基準に生きていけばいいんだろうって思ったのです。
最後に
重篤状態までになった義母も、今では以前の穏やかな義母に戻れました。
先生を始め義母に関わる各スタッフにはとても感謝しています。
お陰様でいつもの介護生活に戻り安堵感に包まれながら毎日を過ごせています。
落ち着いた今、あの経験があって考えたり感じたことは貴重だなと思っています。
この先いつまでも同じ環境で過ごせるわけではないですが、人生とは何かと介護を通して教えられたような気がします。
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